2017年4月18日火曜日

「ビジネス心論」第八稿


「起業」への期待と心得=その2:何を想う、誰を想う、未来を想う


起業とは、自らの夢をカタチに変えていくプロセスであり、時代の変化と共に進化を続ける生命を育む業(わざ)と理解すべきである。その変化の中に自らを置くと、誰のために自分は何をすべきか、何を遺して未来を描くのかが見えてくる。その際に何を確認すべきか。自問自答で自らに投げかけることだ。

[My Question]

そもそも何をしたいのか。

自分の夢を実現したいのか/開発したモノを提供したいのか/他人を驚かせたいのか・・

「対価は後からついてくるもの」と思えるか。私は、マーケティングの理論と現場を結ぶことをしたかった。

誰のために事業を始めるのか。

ビジネスはさまざまな他者との関与によってカタチ化していく。夢想するビジネスの関与者(特に顧客)     
    誰と考えているのか。その結果は、自分(家族)にどのような影響を与えるのか。

私は、「自分」のために起業をした。人生の主役は「自分」であるべきと考えていた。

どこまでの未来を夢想しているのか。

明日の行動も「未来」ではあるが、少なくとも3年後に自分は何をしていたいかを、具体的に想像しておく  
     ことが、自らへのプレッシャーになり、進化の原動力にもなる。



2017年3月21日火曜日

「ビジネス心論」第七稿


「起業」への期待と心得=その1:起業には3つの心得がある。

自分自身の体験も含めて考えると、「企業」人を離れて「起業」する際には、
3つの心得がある。
自らが進み行く道を切り拓く「覚悟」と見ることもできる。

一つは「想」:

Ø自分は何をしたいのか。幼い頃より「想い」続けてきたことはあるのか、長じてどのような分野に身を置こうと思ったのかを、常に「想起」すること。

Ø個人的には、幼少期よりの「想い」が支配していたこともあり、起業することが「思念」のベースにあった。経済的な価値追求ではなく、自らの「夢想」の実現が主題であった。

Ø遠い先を読むことは出来ない。ただ、近い将来(3年後)、自分はどのような環境で、どのように振舞っていたいかは、常時思考(Full-Time Thinking)してきた。

二つは「脈」

Ø起業するには経済的な支えは必要である。いわゆる「金脈」。しかし、それ以上に必要なことは自らの想いを支援してくれる「人脈」である。

Ø特にプロジェクトを推進するにあたり、誰を知っているか、誰とコンタクトを取ればうまくいくのかは、プロジェクト自体の質を左右するポイントである。

Øまた、自分の考えを説明する「文脈・論脈」の設計は、仮想的なビジネスを実体化していく上で欠かすことの出来ない能力である。

三つは「動」:

Ø考えを持たずに動くことは、単なる無駄な動きに過ぎない。そうではなく「考動」の心得を持つこと。考えすぎるとネガティブ思考に陥りがちである。そこそこ考えたなら、動くこと。

Øインターネットが常態化した今、連絡には「速度」よりも「即度」が求められるようになった。それだけに、起業家自身の動きの良さ、日常の動作は他者からの評価にすらなっている。

Øわからないことがあったならば、ネットの検索は当然の動きとして、これに何を加えることが出来るか、誰との出会いを演出できるかによって、ビジネスの広がり方は異なってくる。

2017年3月9日木曜日

「ビジネス心論」第六稿

「良い」企業から「善い」企業への転換 =その3:先人の「想い」が「型」をつくる=

「経営」を机上の学問で終わらせることなく、ビジネス現場で実践してきた先人の声には「なるほど」とうならせるものがある。そこに、自らの「夢」を実現しようとする強い想いが働いているからではないか。決められたルールのない状況から、新たな事業を起こす。そして、その人・企業なりのやり方を生み出し、「人となり」を感じさせ、その企業らしさがさまざまな分野や場面で形となって現出する。
 松下幸之助や本田宗一郎の発した言葉は、時代を超えて普遍的な意味を持って、現代に投げかけられる。 耳に残るのではなく、心に響く言葉が多い。そこには、研究者が一般化して発している記号としての言葉ではない深さがある。しかも、それらの言葉には「解説」はない。聞いた者たちの「解釈」を通じて、心に刺さっていく。 個人(故人)が、その時に自らが汗をかいて、腹の奥から発した言葉である。喉からの言葉というよりも、腹からの言霊といった方が良い。
 そこには強い想いが隠されている。同じ言葉を一言一句暗記(練習)して自分で発したとしても、裏打ちのない言葉は、単にむなしい響きが残るだけである。先人の想いに近づこうと鍛錬し、新たに生み出そうとする日々の稽古を通じて、表現は違うものの先人の「想い」に近い言葉が生まれてくるのではないか。そこにこそ、企業の経営が学ぶべき姿勢があると考える。
 今、日本の多くの企業には、新時代の経営の「型」をつくり出す力が求められている。その「型」は全てが言葉になっていないものかもしれない。しかし、「善」をなそうとする想いや行動を見ることは出来る。
 あるビジネス・スタイル(型)を生み出した経営者に、個人的に守り続けている「こだわり」を確認することも良い。一日の行動をつぶさに見ることも良い。その全てが、学習の素材になる。これからの経営モデルを生み出そうと、日々格闘しているビジネス・パーソンへの、ある時はガイドブック、ある時は激励文、そしてある時は、道標にもなるものである。「型」の要素に、これからの経営の指針が多く含まれていると考えられる。

2017年3月2日木曜日

「ビジネス心論」第五稿

「良い」企業から「善い」企業への転換 =その2:「善い」企業には「型」がある=

 半世紀以上前の、いわゆる戦後復興期の日本経営の論理は、「成長の軌跡」を描くための「効率性」「生産性」をベースにおいていたことは論を待たない。そのために、ある時は「人間性」が置き去りにされてしまったこともある。1990年代にバブル経済が崩壊してより、欧米の経営モデルが多く紹介され、新しい言葉の渦の中に途方にくれてしまった企業人にも多く出会うことがあった。
 決められたレールに乗って、「身体に汗」をかくことを教えられたビジネス・パーソンが、新時代の経営のあり方を模索して「頭に汗」をかくよう指示されても、はたと何をすれば良いか路頭に迷うところである。
 その背景には、決められたルールに則った「形」の訓練は受けたものの、新しい「型」を求める学習機会や内発力向上の機会を失したままに歳を重ねたことも一因と見ることが出来る。企業の人材面から見れば、何とも「もったいない」話である。人は本来「考え」「生み出し」「つくり出す」能力を持っているにもかかわらず、ただひたすらに「行動」力をつけることが求められており、「考動」の術を持たない人材になってしまった。企業の人材育成が誤っていたわけではなく、さまざまな「技能」習得を基本にした学習機会が大勢を占めていたからである。
 今、新しい経営のモデル(型)が求められている。ブルーオーシャンの言葉を持ち出すまでもなく、新たな原野を開墾し、自らの糧を生み出す土地(市場)創造の知恵が求められている。
 決められた分野での技能を高める学習は、その分野を横に広げる「形」は生み出すものの、新たな視点で深めていく「型」を生み出すことは出来ない。


2017年2月22日水曜日

「ビジネス心論」第四稿

 
「良い」企業から「善い」企業への転換 =その1=

 「会社の寿命:盛者必衰の理」が日本経済新聞社から上梓されたのは1984年8月。会社の寿命は30年と、時にセンセーショナルな話題を投げかけた。その前後に、「続・会社の寿命:衰亡を招く“第2の法則”」(85年6月)/「続々会社の寿命:強さの研究」(85年11月)/「良い会社:長寿企業の条件」(84年2月)/「続・良い会社:夢ある会社の条件」(85年9月)が続いた。そして、90年代に入ってからは、地球環境やリ・ストラクチャリング(人減らしではない企業再構築)を主題にした、「環境に良い会社:地球に優しい経営の条件」(91年11月)/「会社の改造:ニッポン再構築への胎動」(92年12月)が、さらに「強い会社:勝ちパターンを描く個性派企業」(94年7月)/「続・強い会社:揺るぎなき経営理念の実践」(95年6月)が上梓され、企業経営に対するオピニオンを発信してきた。
 書籍のタイトルは、ある面その時代時代の世相や注目テーマを取り上げている。踊る言葉に、かつてより日本企業を評価してきた尺度が見え隠れする。基本は「体つき」をベースにしているように思える。曰く、体格(企業の規模)であり、体力(経営の資源)、そして体質(組織の風土)である。
その3軸を基本にして、時の経営環境にいかに適応をするかが基になっていたと見られる。相対的な評価を想定して、多くの尺度は数量化され、企業の産出する価値の総計を、売上や利益、株価、給与水準等々の計数によって順位付けがされていたこともある。
 企業の経営目的を経済的な価値増殖におけば、そのような判断も「正」として受け入れられる。
しかし新しい世紀になってから20年弱。ましてや、雇用不安を生み出している社会環境にあって、果たしてそのような定量的な尺度を基軸として企業の行動を見ることが良いことであろうかという疑問が浮かんでくる。企業を「法人」というように、人格を持った有機体と考えれば、人を見るときに、その人の「体つき」だけで判断をするかどうかを問うてみればよい。それだけではなく、その人の「人となり」もうかがい知ろうとするのではないか。先述の「体格・体力・体質」に加えれば、その企業ならではの「体(てい)」とでも言うべき視点であろうか。
 その基本は、「良いか悪い」かといった相対的な尺度から、「真・善・美」のまことを持った「善い」行いとは何かを考え、社会・顧客と共に未来を創造し、価値を生み出す力を評価する時代になっていると捉えるべきではないだろうか。

2017年2月14日火曜日

「ビジネス心論」第三稿


自分探しの道に迷う君に、志」の一考 

  ビジネスでは、一人ひとりそれぞれの心の中にあるものに大いに期待したい。未来に向けて描いているあろう自分自身の姿である。いつも、自らの心が、どちらの方向を向いているのかを確認したい。
  心が指す。まさに「こころざし=志」である。何となく茫洋とした意志かもしれない。若者の間では「自分探し」という言葉も聞く。自分が何に向いているのか分からないので、固有の職を持つことなく、自分の可能性を探すと言う。しかし、考えをいくら巡らせたところで、自分自身の実体が浮かんでくるとは思えない。先ずはやってみることではないのかそもそも、自分は「さがす」ものではなく「つくる」者と心得ている。
  好きなことを一生続けられると幸せ、との言も聞く。しかし、志は決して好きなことばかりを迎え入れてはくれない。嫌なこともある。意に沿わないこともある。ただ、嫌だと思ったことも、次なる自分を生み出す術と心得た時に、嫌なことではなくなる。自分の心と会話をしたかどうかが問われる。
 「心こそ、心惑わす心なれ。心に心、心許すな」と昔から言われる。心が指し示す方向を持った自分との出会い。心してその時を大切にしたい。

若きビジネスパーソンに、気」の一文

新たな環境では、気遣いも多いことだろう。気疲れから、気温には関係なく風邪をひくケースもある。ただ、ビジネスは人と人との関係によって成り立つ。それだけに気配りも必要である。どのような人に対しても、自らの気概を見せながら気後れせずに立ち向かって欲しい。余り気負うと運気が落ち気味の時には気落ちしてしまうことになる。
  気兼ねをしなければならない場もある。気軽に話し掛けてくれる人もいるだろう。気障(きざ)な人もいる。ただ、ものは考えよう。気持ちをしっかりさせていれば、気合が入るもの。たまには気晴らしに気の会う仲間との酒席も良い。和気あいあいとした中で気勢をあげることだろう。そのときの空気を読み込みながら、気宇壮大な未来を描いて欲しい。酒気を帯びていても気品ある態度は、気分を盛り上げるものだ。
  「気」は人の精神が外に出る様子をいう。景気の良い話が聞こえてこないビジネス環境ではあるが、元気な振る舞いは、気骨を感じさせるものだ。根気よく意気を感じさせる日々を送りたい。若気の至りと言えぬ歳を重ねた今、改めて「気」を高めて気づきの一文。

「ビジネス心論」第二稿:学ぶ志が次代を拓く

ビジネス思考の「意・志・気」=その1=

何かを成し遂げようとした時、人は不安に駆られることがある。今のままで良いのか、他にもっと良いやり方があるのではないか。確認する術を持たず、今までに自分が知り得たことを基本に、もう一度筋道立てて、自分のやろうとしていることを説明しようとする。 そこに働く力としては、ある時は累積された個人的な知識がものを言うこともある。
しかし一方で、知識だけでは解決できないことがある。知識を活かすのは、本人の「意」であり  「志」、そして「気」である。
※ビジネスパーソンに、「意」の一言

蓄積してきた知識だけでは、今起きている現象を説明することが出来ず、あの時に、もっと学んでおけば良かったと反省することもある。後の祭りである。そのような時に大いに発揮されるのが、本人の意識である。過去は問題ではない。今起きている現実にどのように対処しようとするのかの、自分自身の意欲や対応の姿勢を問われているのだと、はっと気づく。すると、それまでに思いもつかなかった方法が浮かんでくることがある。誰かに習った方法ではない。自分自身が編み出した道筋である。
理屈だけでは解決できないことが多く登場してくるのが、ビジネスの現場である。このような施策を展開すれば、顧客は間違いなく動いてくれるはずだと思うのだが、その通りの結果が生まれてこない。予期せぬことだらけである。そのような時には、過去に学んだことの、何とも脆弱なことかを思い知らされる。
単なる表層的な「知っている事実」よりも、心底思い込んだ「まだ見ぬ未来」を 実現しようとする意識が、どれ程の力になるかを知るときである。
マーケティングが、「学」として存在するのではなく「論」として存在するのも、 そこに意味がある。体系的な枠組みを知ることだけが学問ではない。自分自身が 実行する「未来への道案内」である。「意のあるところ道は拓ける」そして、「知は その道を飾る」と解釈したい。

2017年2月12日日曜日

「ビジネス心論」第一稿

 
   グローバル経済が進行する21世紀のビジネス環境。今、新たなビジネス・モデルが模索されています。大企業モデルからの転換が言われ、AIやSNSを活用した独創的な発想で新規分野に挑戦するコーポレート・ベンチャー(企業内起業による新たなビジネス領域創出)への注目度も増しています。
 そこで論ずべきことは、企業=事業は誰のために存在しているのかということです。言うまでもなくそれは「自らの顧客のため」であり、さらには、その「顧客の顧客」にまで目をやって、喜びを提供するためにあります。提供者が考える良いものを提供し続けたからといって、企業の存続や成長は約束されません。顧客への適応を継続した企業=事業こそが、社会的に存在が許されるのです。
そのような考え方は、マーケティングをベースにした経営の実践そのものの必要性を語っています。
 1955年に日本の産業界に紹介されたマーケティングの基本哲学は、環境の変化に創造的に適応しながら、経営のモデル自体を「顧客主導(基点)」に組み立てることにあるからです。しかしビジネス現場では、「日々の仕事に追われて、未来を考える時間がない」「毎日一生懸命働いているのに、これ以上どうすればいいのか」といった声も往々にして聞かれます。
 企業の成長は、時代環境変化への適応力であり、日々の仕事のちょっとした変化は、何年も経つと大きな変化になっています。ビジネスを実践している一人ひとりが「自分に気づき、磨き、成長する」こと。そして、個人的な経験だけを拠り所にするのではなく、幅広い視野で「考える力」を高めることが必要です。
 未来を考え、描き出す力。それは、自らが「学び続けよう」とする志でもあると思います。
私自身、マーケティング概念に出逢って50年強の時が流れました。多くの時が流れ、それぞれの年が巡り、人生の歳を重ねましたが、いつも心していることは、絶えざる「学びの志」を持ち続けることです。
 次代のビジネスを生み出す思考の糸口を、私のマーケティング観を背景として整理し、発信していこうと思います。マーケティングする心が読者諸兄と通じ合い、頭に汗して共に考える友が増えることを願い、清野裕司の「ビジネス心論」と名付けました。ご一読の後、読後感やご意見を頂戴できますことを願っています。
 
 
https://www.facebook.com/yuji.seino

想いを発信する

 今思うこと。それは、HPにローンチした様々なファイルやガイドを、どれだけの人に見てもらえるかということ。 当方としては、500人の方々を目標にしている。 なかなか、難しい。独りよがりにならぬこと。粘り強く。 Management Partnar Staff 清野裕司