2010年12月27日月曜日

流れる時。重ねる歳。

東京でビジネスをしていると、何となく人と接触しながら歩くことが多くなる。同じような街並みの地方中核都市の繁華街を歩いていても、意識さえしていれば人と接触することはそれ程無い。しかし朝の通勤ラッシュ時間では、たとえ意識していようが、どうしても人とぶつかってしまうことがある。時の流れも早いようだ。同じ時を刻んでいるにもかかわらず、周りの景観がそうさせるのか、地域によって流れ行く時がゆっくりしたものに感じる。そして、年の変わり目、カレンダーの厚さに一年の時の流れを思う。
歳を重ねるに従って、一年を実感するスピードが速まると言われる。その流れを知るサインを、何で感じるのかによって異なるようだ。学生であれば、折々の季節休暇が節目になる。自分の誕生日が来て一年、ということを感じる人もいるだろう。自分の生活環境にどのような景観をもっているかによって、その実感する早さが違うように思う。企業のマーケティング活動のスタッフとして参加するビジネスを主としていると、プロジェクト自体の時間の流れが一つの物差しになることもある。そこには、都会も地方も存在しない。千km近く離れた九州でミーティングをしている時は、その空間が東京であろうが福岡であろうが、プロジェクトへの想いはいささかの違いもない。アルプスの山の麓に住んだ経験は無いが、周りの景観から推測するに、時の流れが止まっているのではないかとも感じる。
マーケティングは、時の流れをつかむことから始まる。ただ流されるままに暮らせば、変化実感度も乏しくなるだろう。家族の誰かの誕生日をもってして、時の節目とするのであれば、そこには自分自身の主役感覚が存在しない。マーケティング・スタッフとしては感度が鈍いと言わざるを得まい。日々、自分のマーケティング感で時を感じることを大切にしたいと思う。

2010年10月10日日曜日

未来の構想力

21世紀に入って10年を過ぎるが、その間に何か明るい話を聞いただろうか。戦争、拉致、誘拐、テロ、殺人・・・新聞紙上に躍る文字は、何ともおどろおどろしい漢字ばかりである。これが今の人間社会を説明する言葉なのかと、少々嫌気がさしてくる日々が続く。昔を懐かしむわけではないが、「明日は今日より素晴らしい」と信じて眠りについていた60年代の日々から、「明日も今日と同じか?」とある種のあきらめ感を抱いて眠りにつく毎日では、次代を生み出す活力にも大きな違いがあるように思える。
右肩上がりの成長のモードにない現在にあって、明日を夢想すること自体が無益なことのように思える風潮は、健全な社会とは決して言えまい。若者の眼に力を感じない。何となく惰性で街を徘徊しているようにも見える。それは歩く速度に感じる。のんびりではない、怠惰な歩みである。無目的的な動きである。衝動的な事件が多い。思考の回路が短絡である。今、この行為をすれば周囲にさまざまな影響を及ぼすであろうと考えることをしない。思慮分別のない社会は、今だけを考え刹那的である。
かといって未来はないか、といえばそのようなことはない。日常生活自体が、今の繰り返しによって未来を生み出している。どうやら、その時の流れの糸が細く、もろくなっているのかもしれない。繋ごうと考えても、ぼろぼろになって強く結ぶことが出来なくなっているのか。であれば、生まれてくる社会は、常に泥縄的な対応をする、急場しのぎの社会である。
マーケティングは、過去の事実を説明するものではない。これから起きるであろうことを予測し、その先にある現実を手繰り寄せながら今を見直す思考を持つものである。かといって、「未知なる未来」を夢物語のようにフィクションに仕立てることではない。予測される近未来を、リアルに描くことである。「既知なる未来」の構想力を持つものといえる。だからこそ、力強く未来を構想する、力強いスタッフ活力が必要なのである。

2010年9月17日金曜日

自分契約

私は今「契約」をして現在のビジネスを展開している。誰と何を契約しているのかといえば、「自分自身」と「マーケティング・スタッフ・ビジネス展開」の契約である。それ程、縛りのきつい契約ではない。少なくとも今後3年間、「元気に」次代のマーケターに「正道的にマーケティング思考・実践を伝承する」ことが基本契約である。
したがって、おちおちと風邪などひいていられない。先ずは「日々の元気」が契約の第1条である。そして正しくマーケティングを学ばなければならない。第2条が「正道的なマーケティング伝承」にあるからである。表層的なことを言葉巧みに語るのではなく、本質的なことを自らをメディアとして伝えることを心しなければならない。現在の契約は3年。その後は1年毎の契約更改に臨もうと考えている。そのためにも、自らが学ぶことを忘れてはならない。
学ぶとは「知らないことをわかるようにする」「自分なりの解釈をする」「学問を体系的に理解する」と、さまざまなレベルがある。どの段階にあっても、さまざまなアプローチがある。学校で一般的な学問体系を「習う」。先人の残した知の集積を書物を読むことによって「辿る」。他者の考え方や理解の内容を会話を通じて「聴く」。これらのことは日常生活で繰り返していることである。
企業のマーケティングも実は契約関係によって成り立っているように思う。それは「顧客」との契約である。「顧客を裏切ることなく、正しい商品やサービス、情報などのモノや知を提供し続ける」契約。それを、何年契約とするのか。その後の契約更改の条件を、顧客が間違いなく提示してくれるかどうかが問題である。再契約不要との答えが返ってきたのでは、市場からの撤退を余儀なくされる。
契約を継続するためには、先ずは自らを律していく必要がある。契約を正しく履行しようとする想いが無ければ、契約の更改は無いと思った方が良い。してみると、契約の履行・不履行の判定は、契約を取り交わした相手に対する自らの「自律」の度合いで決まるのかもしれない。

2010年8月16日月曜日

ビジネス素養

ビジネスの会合がある。その会費を払い込むべく案内を出す。直ぐに反応して早々に振込みをしてくる者、いつまでたっても何の返答もない者、細かな手続きを何度も問い合わせてくる者・・・まさにさまざまな人間模様が繰り広げられる。その応答に個人的な人間性が見え隠れする。ビジネスマンの素養をパターン分類して、属性を分析する絶好の機会かとも思える。
素早い反応で行動を起こす人は、やはりビジネスのスタイルも「俊敏」であろうことが予想される。たまに、問い合わせや確認のメールや電話が来ても、さすがに自己完結的で目的的な会話である。いつまでたっても動きを見せない人。個人で負担できるであろう金額でも、会社払いにすべく細やかに請求書を要求してくる人。管理的な業務には最適であろうが、折角多くの人と出会い、新しい知見を聞くことの出来る会合である。個人のレベルアップのための僅かな投資までも、他者依存するとは、自分の進化をどのように見極めている人であろうか。
何の返答もなく、こちらから再度の連絡をしてやっと、何がしかの返答をする人。やはり他者依存的である。「確か数日前に振り込んだのだが、電子振込みの手続きがうまくいかなかった・・・」であるならば、他の方法もあった筈。常に自分の行動は是認である。スタッフとして、自説を曲げることなく、かたくなに自分の城を守ろうとするタイプか。
メールという便利なメディアが発達したお蔭で、相手の顔を見ることなく、その人のビジネス素養を読み取ることが出来るようになった。「人の振り見てわが振り直せ」の感を高める。

2010年7月27日火曜日

昆虫顔

40数年前から、個人的な意識としてあるダウンタウンのひとつに渋谷がある。学生時代に友と語ったのも、酒の席を知ったのも共に渋谷であった思い出がある。この街がいつのまにやら大きく変質してしまった。大人を見かけることが少なくなった。どこかに追いやられたようだ。それに代わって、多くの子ども達が席巻するようになった。
街の活力は、その街に流れる風が影響を及ぼす。街を占有している割合に高齢者が多いからといって、歳をとった街とは言えない。高齢者が多いといえば、かの有名な巣鴨がある。確かにお年寄りが多く商店街で買い物をしたり、お茶をしたりと賑やかだ。非常に元気な街である。活気がある。そこに流れている風はよどんでいない。溌剌とした風が、多くの高齢者に吹きかけ、すがすがしさすら感じさせる若さ溢れる街である。歩み来た日々を振り返りながらも、明日をしっかりと見つめ、生きる力を感じさせる大人の顔がある。
そのような眼差しで今の渋谷を見ると、活力ある風が吹いていない。逆によどんでいる。まっすぐに前に向かって歩きたいのだが、それが叶わない。若者の声は聞こえるのだが、会話が聞こえてこない。前をふさがれるので、少し横によけて歩こうとすると、大きなゴミにぶつかりそうになる。と思えば、ゴミではなく街角にべったりと座り込んだ若者数名であった。街が汚れて見える。色がつかない街である。カラフルな服を着て歩いている者たちは多いのだが、その色が街の景色にならない。どうやらそれは、歩く人間の顔つきにもよるようだ。
日常を含めて、人間としての思考回路を停止してしまった顔つきが多い。無表情なのである。「昆虫」のような顔をしている者に出会うことがある。大人になることを拒否して、今の状況に対しての疑問文すら持ち得ない顔をしている。眼だけが、おどおどと回りを見やる。さながら、昆虫の目である。脳が退化してしまったのだろうか。人生において感動をした痕跡を持たない顔である。夏の一日に気になる風景だ。

2010年7月14日水曜日

「会社」って?

あなたは「会社」を見たことがありますか。何を今さら・・・毎日通っているではないか。と言われるかもしれないが、あなたが通っているのは、会社の場所=社屋であって、会社
に通っているのではない。通うのではなく、会社という「機能」に参画しているのである。「あそこが株式会社○○の本社だ!」と、我々が日常接し、眺めているのは、株式会社○○の本社社屋ということになる。
会社とは“Company”である。“Com”は、“Communication"のComと同じく、「共有する」ことを意味している。“Pany”は「食糧」のことである。したがって、“Company”とは「食糧を共有する(同じ釜の飯を食う)」ということになる。ただ、単なる人の集合としてのみ見るのではなく、さらに解釈して“Pany”の食糧を、人が生きるうえで必要となる「根源的価値」と理解されている。
会社=“Company”とは、「価値共有の集合」ということになる。
果たして、各会社はどのような「価値」を生み出すために集まった集団なのであろうか。昨今動きが急な「分社化」も、多様な価値の分散化を改め、価値を統合的集団に再編成することに他ならない。
あなたは毎日、どのような価値を生み出すために「会社」に参画していますか?
あなたの「会社」が生み出している価値は何ですか?自らの確認からマーケティングは始まる。

2010年7月1日木曜日

相身互い

失われた10年とも言われたバブル経済崩壊後の日本の社会。それに続く世界全体を覆う経済停滞感。何とはなしの疲労感漂う顔付きや、未来を見ることのない眼を持った若者に出逢ったり・・・・。自分の気持ちを素直に出すことが出来なかったり、その想いを文字にすることが出来ない人が増えたりと、どうも現在、「考える力」が軟弱になった社会に住んでいるような気がする。「考える」ことを放棄したのかも知れない。
相手のことや相手の立場を知ろうとせず、自分中心に世の中が回っていると思っているような人に出会う機会が増えてきた。街を歩いていると、都会では止む無く人とぶつかったり、大きなバックの角が当たったりすることは日常茶飯事である。しかし、その瞬間の会話がない。ぶつけた方もぶつけられた方も無言である。ただ、お互いに不愉快そうな顔をして行き過ぎる。一言の「失礼」「ごめんなさい」を言う暇もないほど、先を急ぐ日々であろうか。決してそうは思えないときが多い。
この国の文化は、お互いに痛みを分かち合う社会ではなかったか。「相身互い」の言葉がある。互いが互いの立場に立って考え、事にあたれば相互の理解が進むとの考えがあったはず。いつの頃からか、そのような精神文化はどこかに行ってしまったようだ。相手を思いやることがない社会では、当然相手の心の痛みや悩みは知るよしもないであろう。人を傷つけても、自らの心が痛まないのかもしれない。
マーケティングの根源は、顧客の立場を知ることに始まる。相手の立場に立って、その思考と志向を読み解くことが必要になる。まさに、自らも受け手に立って、相身互いの思考回路を持たなければ、顧客に近づく施策など生まれないと思うのだが。

2010年6月11日金曜日

報・連・相

会社内のコミュニケーションを円滑にするキーワードの一つに「報・連・相」がある。言うまでもなく、「報告」「連絡」「相談」の頭文字を並べたものである。頭で理解できていてもいざ実際となると、スムーズにことが運ばないことが多いようだ。
「報告」は“Re-Port”。Reは「戻る」であり、Portは「港」である。航海を終えた船が港に戻り、自らの行動や見聞内容を伝えることが、まさに「報告」である。「連絡」はといえば、相互に繋がりのあることを言う。一人浮遊していたのでは、仕事に広がりがなくなってしまう。更には「相談」。自分の体験や知見だけでは解決がままならぬことに対して、経験者に対して新たな道筋を尋ねようとする姿勢は、時代を超えてある、ひとつのビジネススタイルである。
このように見てくると、今さら言うまでもないことではあるが、どれもコミュニケーション作法のことを言っていることがわかる。「会社」とは価値の共有体のことを言うが、「企業」はそこでの行動である。ことが動けば、行動に関わる多くの人同士が事実を共有していなければ、それぞれがどのような役回りを持つべきかが判然としなくなってしまう。お互いの意志やプロジェクトの意味を共有するコミュニケーションは不可欠である。
しかし、これがままならない。規模の大小によることもあるが、それ以上に発信すべき主体者の意識も大きく影響する。「まあこの程度は報告しなくてもいいだろう」「あっ、忙しくて連絡していなかった」「相談なんかしなくても自分で何とかやってしまおう」・・・。いやはや、「報・連・相」がどこかに飛んでいってしまっている。コミュニケーションは表層的な言葉の共有ではなく、意志と姿勢の共有であることを、発信しやすい「報・連・相」を唱えて改めて思う。

2010年6月7日月曜日

決定力

日本のサッカーに対するコメントで、何度となく耳にする言葉に「決定力不足」がある。最近の政治の世界にも言われることかもしれない。
しかしこれは、ビジネスの現場でも良くある。「考え方はうまく決まったのだが、最終的にお客様に納得を得られなかった。」「そこそこの評価はあるものの決定するまでには至らなかった。」といった声である。当人は精一杯の努力をしたとの思いはあるのだが、結果が出ない。「ビジネスは結果が全て」とは思わないが、それなりの成果が出ないのであれば、そのこと自体がビジネスとして成立しなくなる。
例え事前の準備に対して、どれ程の時間的な頑張りを見せたとしても、その時間に対しては「ご苦労様でした」の声しか得られない。「ありがとう」と握手を求められることはなかろう。
「決定力」は、そのプロセスの評価ではなく、結果に対する評価である。としたならば、プロセス自体を組み替え、見直していくことが必要になる。何も、日々の仕事全てに結果を求めているわけでもない。しかし、営業であれば「成約」、企画のスタッフであれば「採用」、企業全体で見れば「(目標)達成」が決定すべきことである。その一つひとつに、どのように取り組むのかが問われている。決めになる「ひと味」を生み出す力である。
決めるべき場面を想定して、日々120%の力を出すことを実行しなければ、決定の場においては100の答えが出ない。今ここに、蓄えた120%の力が噴出する「ひと味」の場面を常に心する自分がいる。

2010年6月3日木曜日

知覚変動

マーケティングの分野に限らず「ブランド」という言葉によく出会う。東京銀座はブランドストリートとか。そもそもブランド(Brand)の語源は、英語で「焼き印を押す」という意味の“Burned”から発生したものといわれている。すなわち、放牧されている数多くの牛の中から自分の牛を区別するための「マーク」が元々の意味である。
ブランドとは、当初は単に商品の印であったが、やがて商品に意味を与え、ジャンルを代表するものとなり、今日では送り手(企業)と受け手(顧客)との“絆”の証になっている。また、そのための仕組み・仕掛けづくりがブランディングである。したがって、現在言われるブランドとは“組織の存在理由そのもの”として捉えることができる。個人に置き換えれば、自分自身の「存在感」ということになる。
ブランドパワーのある企業では、経営者がブランドの魂を説き、従業員たちはブランドに誇りを持っている。だから顧客たちはブランドに信頼を寄せると考えられる。ただ、言葉だけでは弱い。日常の行動が問われる。更には日常の行動を通した成果も問われよう。「口ではいいことを言っているのに、実態は・・・、」「あの社長がやるることとは到底思えない。」「普段は物静かな良い人なんですよ。まさかね・・・。」と言った声に出会うと、人が持っている堆積された知覚が大きく動いていることを実感する。企業は人格をもった「法人」。その存在は、他者の知覚の堆積によって形成される。「個人」も同様である。ちょっとしたことが、知覚を揺さぶる。
突然の地殻変動は、暮らしに衝撃を与える天災でもあるが、一方の「知覚変動」は、ブランドの価値を揺さぶるマーケティング力が起こすものである。

2010年5月5日水曜日

顧客

顧客開発,顧客管理,顧客主導,顧客志向・・・「顧客は企業の在外資産」であると言われるように、マーケティング領域では、「顧客」は慣用句のひとつである。
企業にとって「顧客」とは誰のことを指しているのだろうか。そして、どこにいるのだろうか?「顧客」を原典で見直すことから始めてみよう。
「顧客」は「顧(かえりみる)」と「客」からなるが、更にこれは、「雇」と「頁」/「ウ冠」と「各」に分化できる。そして、「雇」=古い/「頁」=頭・顔/「ウ冠」=家・店/「各」=来る、の意味を持つものである。個別の要素を一連で読み解けば、「古顔が店に来る」となり、馴染みの来店・来宅ということになる。一度限りの顔見せではなく、一度の関係(来店)が長く続いて、また顔を見せてくれる人が「顧客」である。
昨今言われる関係性マーケティングにおいて、顧客をいかに維持するかに主題がおかれるのも、店や企業と顧客との長期的友好関係の形成に他ならない。「顧客」は一度として「開発」されたり「管理」されたりしたいと考えたことはなかろう。回を重ねて利用しようと考えるのは、そこに何がしか誘引されるものがあるからであり、それが何かを知ることは、マーケティング・スタッフの大きな仕事である。
顧客との関係づくりとは、店や企業サイドが、何度となく利用していただける魅力を提供しつづけ、馴染みの顔を理解することに始まるのは、「顧客」の原義をたどれば言うまでもない。

2010年5月2日日曜日

感動食

仕事の関係も含め、会食の折に「何を召し上がりますか?」と聞かれた際、私の答えはいつも決まっている。「お寿司がいいです」と。食事のジャンルは一般的に、和食・洋食・中華と分けられるが、幼い頃から個人的には、これに寿司が加わる。母がつくってくれた「巻き寿司」「ばら寿司」「いなり寿司」の味は、郷愁の世界へと誘ってくれる。
人それぞれに、思い出の中の食べ物があるのではないか。家庭内での食事の思い出もあるが、それ以上に外食での思い出が、今も鮮明に浮かんでくることがある。中には、もう既に半世紀近く時が流れたものもある。
5歳の頃、親の転勤で上京した折、初めて旅館で「卵焼き」を食べたことがある。鶏卵自体が高級な食材で、めったに食卓に乗るような時代ではなかったからであろう。その甘さと共に、味わい深い風味が体中を駆け巡っていった。その時の感動が残っているのか、今も出張時の朝食に「卵焼き」を食べている自分がいる。同じく卵にかかわるものだが「オムライス」がある。浅草に現在もあるセキネという食堂で、食べさせて貰ったものである。ふんわりした焼卵で、程よく炒められたチキンライスが包まれている。しかもその上にケチャップが彩りを添えている。味わいと共に、はじめて見る美しさ。7歳の時の衝撃であった。「カツ丼」の甘辛いしょうゆ味に出会ったのは、その後しばらくたった時である。「牡蠣フライ」は、小学4年生のときであった。「天津麺」は、小学6年生。そして、中学生の時に初めてカウンターの前に座って寿司を食する機会を得た。自分の好みを告げると、目の前で自分だけのために調理してもらえる至福の時。その感動は今も強く残っている。
最近は、ついぞ感動の食に出会うことがなくなってしまった。自分自身の食体験が深まったからであろうか。いや、それ以上に、余りにも準備され尽くした食が、日常の中に出回ってしまっているからではないか。今の小学生たちは、20年後、30年後にどのような「感動」を食にもって、語っているのであろうか。

2010年4月29日木曜日

捨て傘

今年のように雨が続くと傘を手離せなくなる。出張の折にも、小さな傘をカバンの中に入れて行く。持っていると、緊急時の対応も可能と考えてしまう。かつては、オフィスや学校に置き傘があった。朝出かける時は晴天であったのに、夕刻からの突然の雨で、帰路は散々な目に遭ってしまうことを避けようとする防衛本能のようなものだ。
しかし、これも少なくなった。突然の雨に遭えば、それはその時。100円も出せば、その場をしのぐための1本の傘を求めることが出来る。突然の雨が止んでしまえば、無用の長物。通路や階段の手摺りやゴミ箱に捨ててしまう。確かに、目的を全うしたものに、用は無いと考える人もいる。雨の日の備え方も変わったということか。しかし、ふと不思議が頭をよぎる。一時的な目的達成のために、多くの資源が使用されている。「所有(する)価値」より「使用(する)価値」への重点シフトが言われて久しいが、使用するのは個人的な行動であったとしても、その行動を満たすために使用される価値ある資源は大量であることを忘れているように思える。
かつて「置き傘」で目的に備えていたものが、今は「捨て傘」が一時をしのぐ。現代の消費行動は「備える」ことより「しのぐ」ことか。ひどく短期的な見方に思えてくる。

2010年4月17日土曜日

敬称略

仕事をしていると、自分の名前にさまざまな敬称がつく。「~君」「~さん」「~社長」「~先生」そして呼び捨ての「~」。どれもそのときに応じたものである。したがって、そう呼ばれる自分も、そのときの気分になっている。
「君」と呼ばれるのは、先輩・上司などの上からの呼びかけ。またある時は同列関係の仲間からの声掛け。共にさしたる緊張感はなく、即座に気軽な会話の中に入っていく。「さん」と呼ばれるのは、仕事の関係での社外・社内のミーティングの時。スムーズな時には、ごく普通に日常的やり取りが続く。「社長」との声は、組織上下の関係を他者が計りながら掛ける挨拶的な声。どうしてもかしこまって、何となく相手との距離を見計らった会話になる。時に「先生」と言われることがある。そもそも、職業として教壇に立ってものを教えたり講じたりしているわけではない。幾つかの自分の仕事の中で、講演をしたりワークショップを展開する時の呼びかけである。何となくかしこまって議論を始めたり、不明な点への質問をしたりと、上下の関係が見えてくる。
自分の業務の中では、もちろん「さん」付けで呼ばれることが圧倒的に多い。次に「先生」であろうか。しかし個人的には、全て「さん」付けで良いと思っている。ある一定の距離感がそこにはあるからである。また、上限関係を余り感じない。壁を隔てて、お互いに考えを膨らませようといった印象がある。そして今ひとつ敬称略の呼び捨て。これは、お互いが深く知り合った仲間との会話の相の手のような印象すらある。幼い時からの友人・仕事を超えた仲間・・・呼び捨てにして失礼ではない関係とは、暗黙のルールに守られた仲間内の会話時のことである。
久々に大学時代の先輩に車中で再会した。その場では「敬称略」。垣根も壁もない。そんな空間にいる自分の顔は、時を超えた20代の顔をしているのだろうか。

2010年4月14日水曜日

分散休暇

時に自分自身の理解を超えるテーマが取り上げられ、自分の日常には登場しない場で議論されていることがある。最近では「長期休暇の地域分散化」がある。どのようなことが発想の起点であろうかと、そもそも真剣な顔で議論を始めようとしている面々の顔を見てみたい。
「暦」を変えるとは、暮らしのリズムを変えることである。それだけに、日常生活に多大な影響を与える。それが、思いつきのようにもみえる論点を取り出して、本気の議論の俎上に乗せたのでは迷惑な話である。観光地を活性化することが第一目標とか。果たしてそうだろうか。
観光地に行く行動ユニットを、家族・ご近所といった内々のメンバーで捉えれば、それぞれが分散して出かけることになり、ある地域では数日間に集中することなく長く客足が続くという、楽観的なシナリオを描くことも出来る。しかし、ことはそれ程うまく運ばないのは、よくあること。東京と関西に分散して住む兄弟が、正月以外ではなかなか会うことが出来ないので、新緑の頃か秋のひと時に老親も加えて揃って伊豆に温泉旅行に行こうと考えた場合にはどうか。関東圏と関西圏で休日が異なったのでは、どちらかの兄弟が予定を変更せざるを得なくなる。
と、このように考えること自体が、自らの生活リズムを仕事中心で考えるオールド・モデルとでも言うのであろうか。時を一にして民族大移動が起きる、日本型の休暇スタイル。それ程スマートなものとは思わないが、かといって、エリアごとの暦を変えることは、もっとスマートではないように思える。それよりも、労働スタイル自体を見直し、生活リズムにもっと自由度が高まる政策を考えた方が良いのではないか。
マーケティングは、エリアごとの生活特性を考慮してさまざまな施策を考える。エリア・マーケティングの発想も、地域文化への適応を考慮した見方である。単に地区を分断する考えではない。とすれば「暦」は誰が決めるものなのか。選挙優位を考える政治には、生活優位の施策を考える糸口は期待できないか。

2010年4月8日木曜日

さくら、さくら・・・。

今年もまた、桜の開花の後は花冷えの日々。小学校の入学式にはまだ、桜が満開だったようだ。入学時の記念集合写真には、誇らしげな桜が新しい時を告げている。
咲き始めから満開を経、散り行く時間の短さに、ある種の空しさと潔さが錯綜するからなのか、日本人の価値観にマッチしているようで、その間の花見の人の群れは、また異常なほどの混みようである。花の美しさを愛でるというよりも、冬の陰鬱な心境からの開放感を味わうことが主題になる。所狭しとマットが敷かれ、宴の始まりである。酒酌み交わす人の顔が、皆にこやかである。「春が来た!」とはしゃぐ集団が、自分たちの陣地を守ろうとする。戦国時代の領地獲得競争そのものである。そこでは余り桜の花の話にならない。仕事の話、家族の話、友人の話、異性の話・・・、尽きぬ話題が桜を背にして進められる。酒の量も増えようと言うもの。背景の花は、桜でなくてもよさそうな喧騒だが、やはり「桜」でなければならない。これ程、新しい時の始まりを教えてくれる花も無い。
それだけ日本人の感性に合っているのであろう。桜を感動と共に賛美する歌に、その心が見える。繰り返して呼びかける歌詞を多く聴く。「さくら、さくら・・・」と感極まって抱きしめるような、投げかけの歌詞である。そこでは、「開放」「感謝」「清潔」「決断」「潔白」「瞬発」と、耳ざわりの良い感慨用語が桜を説明する。
今年もまた、開花の早い桜。どう声をかければよいであろうか。四季躍動の始まりに感謝すべきであろうか。とすると、やはりまた「さくら、さくら・・・。」と繰り返して歌いながら、今年の桜を見る。

2010年4月4日日曜日

お疲れですか?

毎朝見かける光景である。電車に乗る。人と触れ合うことのないぎりぎりの空間に立ち、まわりに目をやる。シートに座る何人かの人。座るというより、へたり込むといった方が似つかわしいかと思わせる人。さながら積み込まれた動物の搬送車のような風景を見ることがある。頭を後の窓につけ、口をあけて寝入る姿。かばんを抱え込むようにして、しばしの睡眠をむさぼる大人。下車駅までじっと目を閉じる人。そのような人たちを見ていると、つい声を掛けたくなるものだ「お疲れですか?」。
静かに寝入る大人の横で、朝から何とも元気なグループに出会う。しかし、その集団からさしたる、というよりも全く建設的な夢ある話は聞こえてこない。TVで見かける芸を見せない芸能人の話、店側が売り切るために意図的に作り出したファッションの話。かまびすしい限りである。そこに、話をしている本人の主体的な意見は聞こえてこない。そんな若者に出会うと、つい声をかけたくなる。「考えることに、お疲れですか?」
その横で、つり革につかまる、というよりもぶら下がるようにして立っている人がいる。ぶら下がっているのだから無理かとも思われるのだが、それでも本を読もうとしている。しかも厚みのある本である。文字は殆ど見ることのない本である。タイトルには「少年」の文字が躍る。「ギャォー」「ドリャー」といった大きな文字。漫画を読むことを悪いとは決して思わないが、少なくとも仕事をするモードになる時間。「仕事をすることに、お疲れですか?」
更に並んだ人の中で、かなりの空間をシェアしているところがある。大きく広げた新聞が見える。その合間から女性の顔。周りに人のいることなど、彼女にとっては何も意味していない風情だ。オフィスに着いてからゆっくりと新聞を読む時間はないのだろう。「毎日の時間に、お疲れですか?」
疲れると思考の回路も鈍りそうだ。朝から「お疲れ」では、活力を生まない。朝一番のメールを読む。その最初の一行に「おつかれさまです・・・」の一文。私は決して疲れていないのだが?

2010年4月1日木曜日

TVのリアリティ

仕事柄テレビは比較的よく見る。ただしコマーシャルとニュースが中心である。ドラマやバラエティといわれるジャンルは、あまり積極的に見入ることがない。情報提供のメディアとしてテレビは、本来時々刻々の変化事実を素早く、リアルに伝える機能を持っている。しかし昨今の番組コンテンツを見ていると、さしたる感動を覚えない。おかしみも湧かない。
突然に起きた予期せぬことに、ハッとした驚き。番組づくりの事情もあるのだろうが、驚きの機会を提供した瞬間に映像が変わる。コマーシャルが間に入る。気を取り直して改めて続きを見ると、遡行して前の場面を繰り返して見せられる。見ている側が気分を再度盛り上げていかなければならない。感動を繰り返すのは難しい。気もなえてしまう。予定されたプログラム時間の少なくとも一割は繰り返しているように感じてしまう。視聴率競争激烈な中にあって、番組途中でチャネルを変えられたのではたまらないとの思いが番組提供者側にはあるのだろう。一方見ている側では、何度も繰り返されたのではたまらない、との思いがある。
テレビ放送が開始されて今年で50年。草創期に「一億総白痴化」の元凶とも言われ(大宅壮一)、子どもの情操にも影響を与えるとの俗悪番組が槍玉にあがったこともある。それだけ、生活空間に多大な影響を与える存在であった。今もその存在自体の大きさに異論はない。しかし問題は伝達される情報の質である。
「今」を伝えるべきものが、その「今」を感じさせなくなっているように思われる。繰り返しの仕組み、季節を感じさせない服装の氾濫。そして何よりも、リアルであることを忘れてしまったような、つくり込まれた番組内容。「今」起きていることを「今」見聞するから感動がある。遅れてきたものには、感動のレベルは数段の落ち込みがある。世の動きのリアリティを告げるはずのメディアが、いつの間にか受け手である視聴者にこびるような姿勢を見せている。テレビは、コミュニケーション手段の効率性を実現するメディアである。マーケティングの現場展開においても重要なポジションを占めている。しかしそこには、本来的なミッション(役割)を担うことの保証があってはじめて実現されることを忘れてはなるまい。

2010年3月20日土曜日

なり・ふり

初めて出会った人と会話をするとき、人は相手の何を見てその人となりを見極めていくのだろうか。お互いが知り合うと会話も弾む。知らぬもの同士だと、いらぬ気遣いをして会話が終わってからも何とは無しの疲労感が残ったりもする。
ビジネス慣行として、先ずは名刺交換をしながらお互いの名と所属を語り合う。自分の担当している職務内容を、かいつまんで説明する。今までのキャリアをとうとうと述べる人もいる。聞いていて疲れる。そんな時、相手の「なり」を見ることがある。何も高価そうなスーツを着込んでいるとか、いかにも不釣合いなネクタイをしている・・・といった見方ではない。「なり」とは「形」であり「態」である。その人の外観が醸しだしている雰囲気とも理解できる。カタチを見ていると、その人の背景までが読み取れるものである。例え元気そうな顔をしていても、その場に不釣合いな「なり」をしていると、却ってしらけてしまうこともある。顔は笑っていても、その「なり」からは本心とは思えないといったこともある。
あわせて、人は相手の「ふり」も見る。どのような振る舞いをするかの、細やかな目線である。「ふり」は「振り」であり「風」である。その時々の対応の姿勢とも解釈できる。たとえ身なりは良くとも、その場の雰囲気にそぐわない態度や行動は、その人の今まで歩んできたキャリアさえ想像させる。
その場で、いかに自分があるべきかを考えられない人は、それこそ「なりふり構わず」勝手な行動をとってしまうことになる。
現在のマーケティングは、単一財の交換を論ずるに止まらず、人と人、企業と人との関係密度を論ずるようになってきた。今まで以上に、その場に適合した「なり」と「ふり」が、企業にもビジネスマン個人にも問われる時代である。

想いを発信する

 今思うこと。それは、HPにローンチした様々なファイルやガイドを、どれだけの人に見てもらえるかということ。 当方としては、500人の方々を目標にしている。 なかなか、難しい。独りよがりにならぬこと。粘り強く。 Management Partnar Staff 清野裕司