2011年8月12日金曜日

語彙(ごい)

i-modeのサービスが始まったのが1999年。人間の7倍のスピードで歳と重ねるというドッグ・イヤーのスピードを超越する速さで、技術は進化を続けている。文字に限らず、画像のやり取りが手元でできるようになった。確かに、自分の今の気分を伝えようとすれば、言葉で説明するよりも、表情や態度を見せた方が相手に素直に伝達できることもある。その状況を文章に表現しようと思えば、何枚にもわたるレポートが必要であろう。街並みや景観,その地における天候を知るのではなく、実感度を高めるのはやはり視覚情報の方が勝っていると考えられる。
ただ、マーケティングを考えるときに忘れてならないことは、ある現象や事実をどのように読み解くかという発想である。同じことに出会ったとしても解釈はさまざまである。異なる環境を見るのは、「個となる」事実を読むことに通じる。「見た」結果を「読む」こと、それは言語での表現の必要性を言っている。いかに言い表すかである。文学的表現の必要性を問うているのではない。さまざまな表現方法を問うているのである。
マーケティング・スタッフに表現力が問われるのも、顧客の行動や店舗の動きを、動画像に限らず自らの言葉で、他者と共有することで、次なる戦略展開糸口を発見する必要があるからである。しかし、これが難しい。言語を持たずに感覚論が横行する風潮があるからだ。「~って言うか・・・○○的には・・・」の自己解釈。「マジっすか?」の疑問詞。何でも「超」のつく評価語。歳を重ねたので、このような表現についていけない、というのではない。市場の事実に関して、共通の認識をもつことが困難になってしまうことへの危惧である。
ここ数年、日本語に関する書籍も多い。その意味するところは、学習する「国語」ではなく、この国にある文化や自らの意志を伝える根本にある「語彙」豊富な日本語への注目である。ある現象を、どのように読み解くのか。自らの心の奥底にある思いを、どう説明するのか。表出を言葉ですることの意味を、マーケティング・スタッフは常に考え、表現力を高めることを忘れずにいたい。

2011年8月4日木曜日

学ぶ楽しさ

ここ数年、企業のマーケティング・スタッフの方々と一緒になって、ビジネス・テーマを考える場に参画したり、企業内のスタッフの前で話をさせて頂く機会が増えてきた。一方通行的なものではなく、お互いに会話をしながら知恵を熟成させ、新たな発想を求めるワークショップ・スタイルのプロジェクトである。そのような場でよく聞かれることがある。「マーケティングについて、どこで勉強するのですか」との問いである。この類の質問が、最も答えに窮するものである。
個人的に日々の見聞自体が勉強と心得ている者にとって、改めて「どこで・・・」と聞かれても、「普段の生活で・・・」と答える訳にもいくまい。なぜならば質問を投げかけた側は、他者の前でマーケティングを語るのであれば、当然、学校や先生から教えて貰う場面があるはずと思い込んでいる節があるからである。「普段の生活場面が学びの場です」などと答えたのでは、会話が進まなくなってしまう。そこで、「このような場で話し合って、お互いに啓発しあうことが、私の学びの場です」と答える。やや不満な顔がそこにはある。
しかし、勉強とは「知らないことをわかるようにする」「自分なりの解釈をする」「学問を体系的に理解する」と、さまざまなレベルがある。どの段階にあっても、さまざまなアプローチがあろう。学校で一般的な学問体系を「習い」、何を考えるべきかを知るという方法。先人の残した知の集積を書物を読むことによって「辿り」、個々の意味を理解する方法。他者の考え方や理解の内容を会話を通じて「聴き」、自分なりの体系的な整理をする方法。そのどれをとっても勉強である。しかも、これらのことは日常生活で繰り返していることでもある。
学ぶとは、一方的にある方法を「習う」ことではない。自分自身の解釈やアプローチの仕方を「組み立てる」プロセスである。そのように考えると、「学ぶこと」が楽しくなる。「習う」ことだけの底の浅さが見えてくる。
日常生活が学びの場であることを教えてくれているのは、「我以外みな師」の想いであろう。

2011年8月1日月曜日

「ない」無い社会

通勤電車の車両の中で、高校生の男女が頬を寄せ抱き合って立っている。通学途上であろうか。そもそも学びの場に向かう姿勢には見えない。それ以上に公衆の面前での振る舞いとは思えない。「みっともない」からやめなさい・・・との声も上がらない。多くは眼をそらしている。あたり構わず、大きな声での会話。ひと時動物園のサル山の風情である。
その少し離れたところで、大きな鏡を出して髪を整えているOLと思しき女性。これもまた「みっともない」と本人は思っていない。日本の女性の特徴であった「さりげない」おしゃれ感覚は、決して全てをさらけ出すのではなく、ある一面は隠すところに風情があったようにも思うのだが。
昨夜のTVのバラエティ番組の評論が始まっている。最近はやりの、お笑いタレントに対する批評である。「くだらない」という言葉が飛び交う。その「くだらない」内容を真剣な眼差しと、限られた単語を羅列して早口でまくし立てている。その会話自体が「くだらない」とは誰も言わない。多少のしかめっ面が見えるだけである。
昼に定食レストランに行く。近隣の競争を意識して、質もそうだが見せかけのボリュームを競う店もある。若い女性では到底食べきれるものではない。食べ残す。誰も「もったいない」などとは言わない。さも普通である。食べられない量を出す店が悪いのであって、自分には何の非もない、といった顔つきである。米一粒食べ残すことに「もったいない」と親に叱られた世代からすると、何ともやるせない。
朝から夕刻までの一日。「~ない」を思いながら言う機会なきままに、目の前の風景が流れる。これも今の情景なのか・・・「しようがない」ことなのか。

想いを発信する

 今思うこと。それは、HPにローンチした様々なファイルやガイドを、どれだけの人に見てもらえるかということ。 当方としては、500人の方々を目標にしている。 なかなか、難しい。独りよがりにならぬこと。粘り強く。 Management Partnar Staff 清野裕司