2010年4月29日木曜日

捨て傘

今年のように雨が続くと傘を手離せなくなる。出張の折にも、小さな傘をカバンの中に入れて行く。持っていると、緊急時の対応も可能と考えてしまう。かつては、オフィスや学校に置き傘があった。朝出かける時は晴天であったのに、夕刻からの突然の雨で、帰路は散々な目に遭ってしまうことを避けようとする防衛本能のようなものだ。
しかし、これも少なくなった。突然の雨に遭えば、それはその時。100円も出せば、その場をしのぐための1本の傘を求めることが出来る。突然の雨が止んでしまえば、無用の長物。通路や階段の手摺りやゴミ箱に捨ててしまう。確かに、目的を全うしたものに、用は無いと考える人もいる。雨の日の備え方も変わったということか。しかし、ふと不思議が頭をよぎる。一時的な目的達成のために、多くの資源が使用されている。「所有(する)価値」より「使用(する)価値」への重点シフトが言われて久しいが、使用するのは個人的な行動であったとしても、その行動を満たすために使用される価値ある資源は大量であることを忘れているように思える。
かつて「置き傘」で目的に備えていたものが、今は「捨て傘」が一時をしのぐ。現代の消費行動は「備える」ことより「しのぐ」ことか。ひどく短期的な見方に思えてくる。

2010年4月17日土曜日

敬称略

仕事をしていると、自分の名前にさまざまな敬称がつく。「~君」「~さん」「~社長」「~先生」そして呼び捨ての「~」。どれもそのときに応じたものである。したがって、そう呼ばれる自分も、そのときの気分になっている。
「君」と呼ばれるのは、先輩・上司などの上からの呼びかけ。またある時は同列関係の仲間からの声掛け。共にさしたる緊張感はなく、即座に気軽な会話の中に入っていく。「さん」と呼ばれるのは、仕事の関係での社外・社内のミーティングの時。スムーズな時には、ごく普通に日常的やり取りが続く。「社長」との声は、組織上下の関係を他者が計りながら掛ける挨拶的な声。どうしてもかしこまって、何となく相手との距離を見計らった会話になる。時に「先生」と言われることがある。そもそも、職業として教壇に立ってものを教えたり講じたりしているわけではない。幾つかの自分の仕事の中で、講演をしたりワークショップを展開する時の呼びかけである。何となくかしこまって議論を始めたり、不明な点への質問をしたりと、上下の関係が見えてくる。
自分の業務の中では、もちろん「さん」付けで呼ばれることが圧倒的に多い。次に「先生」であろうか。しかし個人的には、全て「さん」付けで良いと思っている。ある一定の距離感がそこにはあるからである。また、上限関係を余り感じない。壁を隔てて、お互いに考えを膨らませようといった印象がある。そして今ひとつ敬称略の呼び捨て。これは、お互いが深く知り合った仲間との会話の相の手のような印象すらある。幼い時からの友人・仕事を超えた仲間・・・呼び捨てにして失礼ではない関係とは、暗黙のルールに守られた仲間内の会話時のことである。
久々に大学時代の先輩に車中で再会した。その場では「敬称略」。垣根も壁もない。そんな空間にいる自分の顔は、時を超えた20代の顔をしているのだろうか。

2010年4月14日水曜日

分散休暇

時に自分自身の理解を超えるテーマが取り上げられ、自分の日常には登場しない場で議論されていることがある。最近では「長期休暇の地域分散化」がある。どのようなことが発想の起点であろうかと、そもそも真剣な顔で議論を始めようとしている面々の顔を見てみたい。
「暦」を変えるとは、暮らしのリズムを変えることである。それだけに、日常生活に多大な影響を与える。それが、思いつきのようにもみえる論点を取り出して、本気の議論の俎上に乗せたのでは迷惑な話である。観光地を活性化することが第一目標とか。果たしてそうだろうか。
観光地に行く行動ユニットを、家族・ご近所といった内々のメンバーで捉えれば、それぞれが分散して出かけることになり、ある地域では数日間に集中することなく長く客足が続くという、楽観的なシナリオを描くことも出来る。しかし、ことはそれ程うまく運ばないのは、よくあること。東京と関西に分散して住む兄弟が、正月以外ではなかなか会うことが出来ないので、新緑の頃か秋のひと時に老親も加えて揃って伊豆に温泉旅行に行こうと考えた場合にはどうか。関東圏と関西圏で休日が異なったのでは、どちらかの兄弟が予定を変更せざるを得なくなる。
と、このように考えること自体が、自らの生活リズムを仕事中心で考えるオールド・モデルとでも言うのであろうか。時を一にして民族大移動が起きる、日本型の休暇スタイル。それ程スマートなものとは思わないが、かといって、エリアごとの暦を変えることは、もっとスマートではないように思える。それよりも、労働スタイル自体を見直し、生活リズムにもっと自由度が高まる政策を考えた方が良いのではないか。
マーケティングは、エリアごとの生活特性を考慮してさまざまな施策を考える。エリア・マーケティングの発想も、地域文化への適応を考慮した見方である。単に地区を分断する考えではない。とすれば「暦」は誰が決めるものなのか。選挙優位を考える政治には、生活優位の施策を考える糸口は期待できないか。

2010年4月8日木曜日

さくら、さくら・・・。

今年もまた、桜の開花の後は花冷えの日々。小学校の入学式にはまだ、桜が満開だったようだ。入学時の記念集合写真には、誇らしげな桜が新しい時を告げている。
咲き始めから満開を経、散り行く時間の短さに、ある種の空しさと潔さが錯綜するからなのか、日本人の価値観にマッチしているようで、その間の花見の人の群れは、また異常なほどの混みようである。花の美しさを愛でるというよりも、冬の陰鬱な心境からの開放感を味わうことが主題になる。所狭しとマットが敷かれ、宴の始まりである。酒酌み交わす人の顔が、皆にこやかである。「春が来た!」とはしゃぐ集団が、自分たちの陣地を守ろうとする。戦国時代の領地獲得競争そのものである。そこでは余り桜の花の話にならない。仕事の話、家族の話、友人の話、異性の話・・・、尽きぬ話題が桜を背にして進められる。酒の量も増えようと言うもの。背景の花は、桜でなくてもよさそうな喧騒だが、やはり「桜」でなければならない。これ程、新しい時の始まりを教えてくれる花も無い。
それだけ日本人の感性に合っているのであろう。桜を感動と共に賛美する歌に、その心が見える。繰り返して呼びかける歌詞を多く聴く。「さくら、さくら・・・」と感極まって抱きしめるような、投げかけの歌詞である。そこでは、「開放」「感謝」「清潔」「決断」「潔白」「瞬発」と、耳ざわりの良い感慨用語が桜を説明する。
今年もまた、開花の早い桜。どう声をかければよいであろうか。四季躍動の始まりに感謝すべきであろうか。とすると、やはりまた「さくら、さくら・・・。」と繰り返して歌いながら、今年の桜を見る。

2010年4月4日日曜日

お疲れですか?

毎朝見かける光景である。電車に乗る。人と触れ合うことのないぎりぎりの空間に立ち、まわりに目をやる。シートに座る何人かの人。座るというより、へたり込むといった方が似つかわしいかと思わせる人。さながら積み込まれた動物の搬送車のような風景を見ることがある。頭を後の窓につけ、口をあけて寝入る姿。かばんを抱え込むようにして、しばしの睡眠をむさぼる大人。下車駅までじっと目を閉じる人。そのような人たちを見ていると、つい声を掛けたくなるものだ「お疲れですか?」。
静かに寝入る大人の横で、朝から何とも元気なグループに出会う。しかし、その集団からさしたる、というよりも全く建設的な夢ある話は聞こえてこない。TVで見かける芸を見せない芸能人の話、店側が売り切るために意図的に作り出したファッションの話。かまびすしい限りである。そこに、話をしている本人の主体的な意見は聞こえてこない。そんな若者に出会うと、つい声をかけたくなる。「考えることに、お疲れですか?」
その横で、つり革につかまる、というよりもぶら下がるようにして立っている人がいる。ぶら下がっているのだから無理かとも思われるのだが、それでも本を読もうとしている。しかも厚みのある本である。文字は殆ど見ることのない本である。タイトルには「少年」の文字が躍る。「ギャォー」「ドリャー」といった大きな文字。漫画を読むことを悪いとは決して思わないが、少なくとも仕事をするモードになる時間。「仕事をすることに、お疲れですか?」
更に並んだ人の中で、かなりの空間をシェアしているところがある。大きく広げた新聞が見える。その合間から女性の顔。周りに人のいることなど、彼女にとっては何も意味していない風情だ。オフィスに着いてからゆっくりと新聞を読む時間はないのだろう。「毎日の時間に、お疲れですか?」
疲れると思考の回路も鈍りそうだ。朝から「お疲れ」では、活力を生まない。朝一番のメールを読む。その最初の一行に「おつかれさまです・・・」の一文。私は決して疲れていないのだが?

2010年4月1日木曜日

TVのリアリティ

仕事柄テレビは比較的よく見る。ただしコマーシャルとニュースが中心である。ドラマやバラエティといわれるジャンルは、あまり積極的に見入ることがない。情報提供のメディアとしてテレビは、本来時々刻々の変化事実を素早く、リアルに伝える機能を持っている。しかし昨今の番組コンテンツを見ていると、さしたる感動を覚えない。おかしみも湧かない。
突然に起きた予期せぬことに、ハッとした驚き。番組づくりの事情もあるのだろうが、驚きの機会を提供した瞬間に映像が変わる。コマーシャルが間に入る。気を取り直して改めて続きを見ると、遡行して前の場面を繰り返して見せられる。見ている側が気分を再度盛り上げていかなければならない。感動を繰り返すのは難しい。気もなえてしまう。予定されたプログラム時間の少なくとも一割は繰り返しているように感じてしまう。視聴率競争激烈な中にあって、番組途中でチャネルを変えられたのではたまらないとの思いが番組提供者側にはあるのだろう。一方見ている側では、何度も繰り返されたのではたまらない、との思いがある。
テレビ放送が開始されて今年で50年。草創期に「一億総白痴化」の元凶とも言われ(大宅壮一)、子どもの情操にも影響を与えるとの俗悪番組が槍玉にあがったこともある。それだけ、生活空間に多大な影響を与える存在であった。今もその存在自体の大きさに異論はない。しかし問題は伝達される情報の質である。
「今」を伝えるべきものが、その「今」を感じさせなくなっているように思われる。繰り返しの仕組み、季節を感じさせない服装の氾濫。そして何よりも、リアルであることを忘れてしまったような、つくり込まれた番組内容。「今」起きていることを「今」見聞するから感動がある。遅れてきたものには、感動のレベルは数段の落ち込みがある。世の動きのリアリティを告げるはずのメディアが、いつの間にか受け手である視聴者にこびるような姿勢を見せている。テレビは、コミュニケーション手段の効率性を実現するメディアである。マーケティングの現場展開においても重要なポジションを占めている。しかしそこには、本来的なミッション(役割)を担うことの保証があってはじめて実現されることを忘れてはなるまい。

想いを発信する

 今思うこと。それは、HPにローンチした様々なファイルやガイドを、どれだけの人に見てもらえるかということ。 当方としては、500人の方々を目標にしている。 なかなか、難しい。独りよがりにならぬこと。粘り強く。 Management Partnar Staff 清野裕司